量子コンピュータを「研究テーマ」で終わらせない。三菱電機が仕掛ける「作る側×使う側」の量子戦略

CAE、マイクロ波・レーザー、エコシステム——まだ市場のない未踏領域を「事業」に変える実装論
文:大野泰敬(「SETAGAYA TECH JUNCTION」パーソナリティ)
量子計算、宇宙開発、次世代医療、生命科学、ロボティクス、高度センシング——新産業の起点となる最先端技術の産業実装を論理的に解剖し、ビジネス創出の知見を発信するテクノロジートーク番組「SETAGAYA TECH JUNCTION」。

今回のテーマは、量子コンピュータを「研究テーマ」で終わらせず、その先にある産業実装をどうつくるかである。スタジオに迎えたのは、三菱電機株式会社 情報技術総合研究所 量子プロジェクトグループ プロジェクトグループマネージャーの吉田剛氏。三菱電機が現在向き合っているのは、量子コンピュータを「使う側」と「作る側」の両面から産業へ接続することだ。一方には、CAE(Computer Aided Engineering)をはじめとする量子コンピュータの利用技術がある。もう一方には、量子コンピュータそのものを成立させるマイクロ波デバイス、レーザー、制御システムなどの周辺技術がある。
番組パートナーとして対話に加わったのは、株式会社セックで量子分野の推進に携わる内田氏。量子コンピュータを動かすソフトウェア基盤の視点も交えながら、三菱電機が「まだ市場がない技術」に、なぜ人と資金を投じるのか。その判断基準、組織の動かし方、そして2030年代を見据えた量子産業のつくり方を掘り下げた。
三菱電機の量子技術とは?——「使う側」と「作る側」を同時に進める
三菱電機の量子コンピュータ研究を理解するうえで、最初に押さえるべきなのが「使う側」と「作る側」という二つの方向性である。使う側とは、量子コンピュータによって何を計算するのかを考え、アルゴリズムや量子回路をつくり、将来の製品開発や社会システムへ応用する側だ。例えば三菱電機では、空調機器の内部を流れる空気のような物理現象をコンピュータ上でシミュレーションし、その結果を製品設計の最適化へ利用してきた。こうした設計・解析を支えるのがCAEである。
量子コンピュータでも基本的な目的は変わらない。ただし、通常のプログラミングとは異なり、量子状態をどのような順番で操作するかを設計し、限られた量子計算資源で必要な結果を得ることが重要になる。三菱電機には、多様な製品やシステムの開発現場でCAEを使い続けてきた蓄積がある。熱、流体、電磁界、構造など、現実世界の複雑な現象をモデル化し、設計へ戻す。その能力を量子計算へ拡張できれば、量子コンピュータを単なる研究用計算機ではなく、製造業の開発プロセスへ組み込める可能性が生まれる。
しかし、ここに現在の量子産業が抱える根本的な壁がある。計算したいものはある。しかし、それを産業レベルで計算できる量子コンピュータが、まだ十分に存在していない。吉田氏は、産業界で「これなら使える」と言えるハードウェアが登場することが、普及には不可欠だと説明する。そして、そのハードウェアにソフトウェアと分かりやすいユースケースが加わった時、初めて利用イメージが一気に広がると見る。だから三菱電機は、「使える量子コンピュータが完成するまで待つ」という選択を取らない。自社の技術で量子コンピュータそのものの成熟を早められる部分があるのなら、作る側にも回る。ここに、同社の量子戦略の特徴がある。
「量子なら何でもやる」ではない。三菱電機が置く3つの判断基準
ディープテックへの投資で最も難しいのは、「技術的に面白いこと」と「事業として取り組むべきこと」を分けることである。量子技術は注目度が高い。しかし、「量子」という名前が付いているだけで、すべての課題を量子コンピュータで解く必要はない。吉田氏が経営層との議論で考えるポイントを整理すると、大きく三つに分けられる。第一は、量子技術でなければ成立しない領域か。既存のコンピュータや別の技術で十分に解決できるのであれば、無理に量子を使う理由はない。第二は、十分な経済価値が生まれるか。研究として成立するだけでは事業にならない。顧客が対価を払えるだけの価値を生み、経済合理性を持たせる必要がある。第三は、三菱電機がそこをやる理由があるか。自社の既存技術、顧客基盤、事業領域、人材、知財をどう接続できるのか。単に成長市場だから参入するのではなく、自社だからこそ持続的に価値を出せる場所を探す。
この三つを重ねると、量子技術の研究テーマ選定は「未来を当てるゲーム」ではないことが分かる。重要なのは、未来が確定していない段階で複数のシナリオを持ち、その時々の技術成熟度、市場、パートナー、経営環境に応じてポートフォリオを変えられることだ。
量子コンピュータを支えるのは「量子ではない技術」でもある
三菱電機が作る側へ踏み込める理由は、同社が長年蓄積してきた技術にある。吉田氏自身の専門は、もともと光通信だった。一見すると、光通信と量子コンピュータは異なる分野に見える。しかし、量子コンピュータというシステム全体を分解すると、量子力学そのものを扱う領域だけで構成されているわけではない。量子ビットを操作するためには、マイクロ波、レーザー、光学系、電子回路、制御装置、通信、冷却、ソフトウェアなど、多数の古典技術が必要になる。
吉田氏は、量子を制御する周辺部分の多くには、光通信やレーザー加工機などで使われてきた従来技術が利用されると説明する。そこで、量子の専門家と、光通信・レーザー・制御・システムの専門家を掛け合わせる。すると、単独の専門領域では作れなかった技術が生まれる。つまり同社が狙うのは、量子コンピュータそのものを一社ですべて作り切ることではない。量子産業が大規模化した時に必ず必要となる、重要なコンポーネントやシステムを握ることにある。
研究組織を「既存事業の次世代開発」から、新しい事業をつくる場所へ
量子技術への取り組みは、技術テーマだけの変化ではない。三菱電機における研究開発組織そのものの役割の変化とも重なる。従来、企業研究所にとって重要だったのは、現在存在する事業の次世代製品、さらにその次の世代の製品を支えることだった。もちろん、それは今後も重要である。しかし、その延長線だけを追っていれば、既存事業は強くなっても「まったく新しい事業」は生まれにくい。
吉田氏によれば、三菱電機が「イノベーティブなカンパニー」への変革を進める中、研究開発にも新しい事業創出へ踏み込む役割が求められるようになった。トップダウンだけでも、現場からのボトムアップだけでもなく、その双方が重なる中で「少し新しいことをやらせてみよう」という空気が生まれていったという。
2022年頃から将来技術を扱う組織が動き始め、2023年には先進基礎研究部が発足。2024年には「量子技術グループ」へと名称を変え、2025年には量子技術の中でも集中投資する領域を特定。そして2026年4月、その実働を担う部レベルの「量子プロジェクトグループ」が発足した。研究テーマが先に完成し、後から組織を付けたのではない。研究者の興味、外部環境、経営方針、技術の成熟度、社内の協力者が少しずつ重なり、その結果として専任組織へ発展してきた。
成功確率の低い研究に、企業はどう投資するのか
量子コンピュータほど、経営判断が難しい技術も少ない。将来巨大市場になる可能性はある。しかし、いつ本格的に産業利用できるのかは断定できない。技術方式の優劣も確定していない。現在有望に見える技術が、数年後には別の方式へ置き換わる可能性もある。それでも企業は、研究を始めなければならない。吉田氏は量子を「フロンティア領域」「未踏領域」と位置付け、成功が約束された研究ではなく、むしろ失敗する可能性を高く見ておくべき領域だと率直に語った。この発言は重要である。企業の新規事業では、「この投資は成功します」と説明したくなる。しかし未踏領域で、その約束をすること自体に無理がある。必要なのは失敗を隠すことではなく、失敗する可能性を含めて、どこまでの投資なら許容できるのかを設計することだ。量子が伸びれば投資を強める。別の技術が台頭すれば資源配分を変える。社内資金だけでなく、外部資金やパートナーの力も使う。成功/失敗の二択ではなく、状況に応じて投資量を変えられる仕組みを持つ。それがディープテック経営に必要なリスク管理になる。
トップの承認だけでは組織は動かない——「間にいる人」をどう納得させるか
先端技術の事業化では、技術そのものと同じくらい組織マネジメントが難しい。経営トップが「やろう」と言えば、すべてが動くわけではない。吉田氏は、トップダウンとボトムアップの双方があったとしても、その間にいる管理職や横にいる組織が納得しなければ前へ進まないと説明する。トップの承認だけを一足飛びに取っても、実際に手を動かす人が腹落ちしていなければプロジェクトは止まる。その感覚を吉田氏に強く教えた、意外な経験がある。町内会長である。5〜6年ほど前、役員が順番で回ってくる町内会で、くじ引きなどを経て会長を務めることになった。企業のような共通の目的も、評価制度も、指揮命令系統もない。年齢も職業も経験も価値観も違う人たちの意見を聞き、合意できる場所を探し、結論へ持っていかなければならない。
この経験から吉田氏が得たのは、「完全に同じ考えの人を探す」のではなく、異なる人同士でも重なる部分を探すことだった。互いの価値観が100%一致する必要はない。「この部分であれば一緒にできる」という領域を見つけ、そこから関係をつくる。量子プロジェクトのマネジメントと町内会運営。距離があるように見える二つをつないでいるのは、権限だけで人を動かさないという原則である。
完成した戦略から始めない。「まず会いに行く」ことでエコシステムをつくる
三菱電機が量子分野で外部連携を広げてきた方法も興味深い。最初から精緻なエコシステム戦略があったわけではない。吉田氏自身、「相当無計画だった」と振り返る。専任に近い組織ができた後、まず取り組んだのは、自分たちの存在を知ってもらうことだった。社内外へ直接足を運び、話をする。そこで自分たちが考えている未来を伝え、相手のやりたいことを聞き、重なる部分を探す。重なる部分が見つかれば、「もう少し一緒に考えてみませんか」と関係を広げていく。最初に巨大なゴールを置き、必要な企業を順番に集めたわけではない。小さな接点からネットワークを拡張してきたのである。パートナーを選ぶ際にも、数式化された基準だけがあるわけではない。実際に話し、お互いを尊重できるか。信頼関係を築けそうか。ロジックの最後には「パッション」や「フィーリング」も残ると吉田氏は笑う。
こうした動きの背景には、「まだない市場」で自社だけの勝ち方を考える前に、まず市場そのものを立ち上げなければならないという認識がある。まだ市場が存在していない段階で、自社がどこで勝つかだけを考えるのは時期尚早ではないか。まず市場を一緒につくる。そのうえで、自社が強く持つべき領域は守る。量子産業のような黎明期市場では、「競争」と「共創」を順番に考える必要があるのである。
量子を動かすのは量子だけではない——セックが担う「古典×量子」の接続
この構造をさらに理解するうえで重要なのが、番組パートナーであるセックの取り組みである。量子コンピュータは、それ単独で社会システムになるわけではない。利用者から計算要求を受け付け、ジョブを管理し、量子コンピュータへ処理を割り振り、装置の状態を監視し、結果を返す。こうした周辺処理の多くは古典コンピュータによって行われる。三菱電機とセックの技術領域は同一ではない。しかし両者の話を重ねると、量子産業の重要な構造が見えてくる。量子コンピュータが高度になればなるほど、必要になるのは量子技術だけではない。マイクロ波、レーザー、通信、制御、CAE、クラウド、スケジューリング、監視——古典技術と量子技術の境界部分に、大きな産業機会が生まれる。量子か古典かではない。「量子×古典」を一つのシステムとして成立させられる企業群が、量子コンピュータの社会実装を支えることになる。
量子コンピュータは、私たちが「量子」と意識しない場所で使われる
量子コンピュータが普及した未来を考える時、つい「量子スマートフォン」のような製品を想像したくなる。しかし吉田氏は、一般の人が量子コンピュータを直接意識して使う場面は、少なくとも初期には多くないのではないかと見る。どこかのデータセンターに量子コンピュータがあり、必要なデータが送られ、計算結果だけが返ってくる。利用者は、その裏側で量子計算が行われていることすら知らない。その方が現実的である。
重要なのは、「量子コンピュータを使った」という事実ではなく、それによって社会の何が変わるかだ。吉田氏が期待を寄せる例の一つが、創薬や医療である。新しい薬の開発が進み、健康寿命が延びれば、人々の生活や人生の質に直接影響する。気象や気候変動の高精度な解析が可能になれば、大規模な政策判断にもつながる可能性がある。三菱電機の既存事業との接点で見れば、宇宙、工場、都市、空調、ビルといった領域もある。ロボットが多数稼働する工場。より複雑に制御される都市。高度化するビル設備。社会システムが複雑になるほど、最適な設計や制御を求める計算量は増える。その一部を将来、量子計算が担う可能性がある。量子コンピュータの本当の普及とは、量子という言葉が目立つことではない。量子計算が社会インフラの裏側へ溶け込み、意識されなくなることなのかもしれない。
ディープテック実装に向けた3つの示唆
1.「未来を当てる」のではなく、変化できるポートフォリオを持つ
未踏領域では、最初から正解を選ぶことはできない。技術成熟度、市場、競合、政策、顧客ニーズは変化する。だからこそ、単一のシナリオへ全資源を固定するのではなく、複数の可能性を持ち、外部環境に応じて投資の強弱を変えられる構造が必要になる。量子技術を使う必然性、経済価値、自社がやる理由を問い続けることが、研究テーマを事業へ近づける。
2.新市場では、自社の完成品より「不可欠な構成要素」を探す
新しい市場で勝つ方法は、最終製品をすべて自社で作ることだけではない。量子コンピュータであれば、マイクロ波、レーザー、制御、CAE、ミドルウェア、クラウド運用など、システム全体を成立させる多数の構成要素が存在する。既存事業で蓄積した技術を、新産業のボトルネックへ接続できれば、新しい競争優位になる。
3.市場がない段階では、「競争優位」より先に「市場形成」がある
黎明期市場では、顧客もサプライチェーンも標準も人材も不足している。この段階で一社だけが勝とうとしても、市場自体が立ち上がらなければ事業は成立しない。大学、研究機関、スタートアップ、大企業、ソフトウェア企業、ハードウェア企業がエコシステムを形成し、技術成熟度と市場成熟度を同時に引き上げる。競争はその後である。
パーソナリティーが感じたこと——「成功するから投資する」のではなく、「成功するか分からないから挑戦する」
今回の対話で私が最も印象に残ったのは、三菱電機が量子技術について「必ず成功する」と語っていないことである。むしろ、失敗する可能性があることを前提としている。それでも研究する。なぜなら、成功してから参入していては遅い技術だからだ。これは量子コンピュータだけの話ではない。AI、宇宙、ロボティクス、核融合、バイオテクノロジー、新素材——日本企業がこれから新しい産業をつくるのであれば、「確実に売れると分かってから予算を付ける」という考え方だけでは、未踏領域へ入れない。もちろん、無制限に投資すればいいわけではない。必要なのは、失敗を許すことと、無計画であることを混同しないことだ。何が起きたら投資を増やすのか。何が起きたら方向を変えるのか。どこまでの損失なら許容するのか。誰と組めば、自社だけでは持てない技術や知見を補えるのか。そして、自社だからこそ持つべき技術はどこなのか。その問いを持ち続けることが、未踏領域における経営なのだと思う。もう一つ印象に残ったのは、最先端技術の話でありながら、その実装を支えていたのが「人に会いに行く」「相手の話を聞く」「重なる価値観を探す」「間にいる人を納得させる」といった極めて人間的な行為だったことである。量子コンピュータの時代になっても、組織を動かすのは人だ。
吉田氏が町内会長として学んだ合意形成と、量子プロジェクトを動かすマネジメントがつながっていることは、その象徴だろう。技術的に成立するかどうかすら分からない。市場もまだ十分に存在しない。それでも、自ら外へ出て仲間を増やし、小さな接点を一つずつ事業の可能性へ変えていく。三菱電機の量子プロジェクトが挑んでいるのは、単なる次世代コンピュータの研究ではない。「まだ存在しない市場を、大企業がどうつくるのか」という、日本企業の新規事業そのものの実験でもある。
