量子コンピューターは「未来の計算機」で終わらない。NTTデータが挑む、匂い・金融・製造をつなぐ社会実装

「量子×匂い」、PQC、数理最適化——2030〜2035年の実用化を見据え、いま現場で知見を蓄える理由
文:大野泰敬(「SETAGAYA TECH JUNCTION」パーソナリティ)
量子計算、宇宙開発、次世代医療、生命科学、ロボティクス、高度センシング——新産業の起点となる最先端技術の産業実装を論理的に解剖し、ビジネス創出の知見を発信するテクノロジートーク番組「SETAGAYA TECH JUNCTION」。今回のテーマは、量子コンピューターである。「量子コンピューターで、何ができるのか」。この問いには、いまだ決まった答えがない。金融、化学、製造、創薬、物流など、さまざまな用途が期待される一方、現在の量子コンピューターは、あらゆる実務課題を従来型コンピューターより高速に処理できる万能な次世代計算機ではない。ハードウェア、ソフトウェア、アルゴリズム、そしてユースケース。それぞれに未解決の課題が残る。だからこそ重要になるのが、「完成してから考える」のではなく、完成する前から、どの問題に、どの技術を、どう組み合わせれば価値が生まれるのかを検証しておくことである。
その仕事を進めているのが、株式会社NTTデータグループだ。スタジオに迎えたのは、株式会社NTTデータグループ 技術革新統括本部 Innovation技術部 主任の磯部太吾氏。大学時代から量子コンピューティングを研究し、現在は顧客企業とのPoCやユースケース探索、数理最適化を活用したシステム開発、講演・執筆まで、量子技術の事業化に向けた活動を幅広く担っている。株式会社セックで量子技術に携わる内田諒氏。まだ完成していない技術を、どう産業へ接続するのか。そして、なぜNTTデータは「匂い」という一見量子とは遠く見える領域に挑んでいるのか。量子コンピューター社会実装の現在地を探った。
NTTデータグループの量子コンピューティングとは?——3〜10年先の事業を、実用化前からつくる
NTTデータグループは、官公庁・自治体、金融、製造、通信、流通など幅広い産業のITシステムを支えてきた。磯部氏が所属する部門が扱うのは、その中でも現在の主力技術だけではない。対象とするのは、3年から10年先に実用化・事業化が見込まれる先進技術であり、量子コンピューターもその一つだ。磯部氏は、量子コンピューターが本格的に事業へ組み込まれていく時期について、2030〜2035年頃を一つの目安として見ている。重要なのは、その時まで研究室で待つことではない。「こういう問題なら量子と相性が良い」「この方式では解きにくい」「この業界には、この使い方がある」「この段階では従来型の技術を使った方がいい」。そうした知見を、実用化前の今から蓄積する。量子コンピューターが本当に使える段階になった瞬間に、ゼロから用途を探し始めるのでは遅い。顧客の業務、データ、制約条件、既存システムを理解し、「どこに量子を差し込めば価値が出るか」という地図を先に描いておく必要がある。NTTデータがつくろうとしているのは、量子コンピューターそのものではない。量子をビジネスへ接続するための「実装知」である。
最大の難所は、量子計算の前にある——熟練者の「勘とコツ」を数式へ変える
最先端技術の研究開発というと、高度な数式やアルゴリズムを扱う姿を想像しがちだ。しかし磯部氏が重視するのは、その一つ手前にある。顧客の課題を聞き、現場で暗黙知となっている条件を整理することである。例えば工場の生産スケジュール。「より効率的な生産計画をつくりたい」と言葉にすると簡単だが、実際の工場には膨大な条件が存在する。この機械ではこの製品しか加工できない。この工程の後にはこの作業が必要になる。人員配置にも制約があり、製品ごとに優先順位も異なる。設備を切り替えるにも時間がかかる。そして、そのルールのすべてがマニュアル化されているとは限らない。現場では、熟練者が長年の経験から身につけた「勘とコツ」で判断しているケースも多い。量子コンピューターや数理最適化へ問題を渡すには、この曖昧な現場知を、コンピューターが扱える条件へ変換しなければならない。人に聞き、ルールを整理し、数式へ落とし、動かしてみる。うまくいかなければ、もう一度現場へ戻る。ルール同士が矛盾していれば、どこまでが必須条件で、どこからが緩和可能なのかを改めて聞く。研究開発でありながら、その仕事は極めて泥臭い。磯部氏は、顧客の課題を整理するコンサルティングの段階を「むしろそこが一番重要」と話す。技術を持っていくことから始めない。「量子を使いませんか」ではなく、「何に困っていますか」から始める。ここに、先端技術を研究で終わらせず、産業へ持ち込むための重要な論理がある。
「量子を使うこと」を目的にしない——現在の技術で課題を解き、未来の量子へつなげる
量子コンピューターの社会実装には、大きな矛盾がある。将来性は大きい。しかし、現時点ですべての問題を量子で解けるわけではない。そこでNTTデータが取るアプローチの一つが、量子の「一歩手前」にある技術を使うことだ。代表例が数理最適化である。工場の生産計画や配送経路、設備配置など、膨大な組み合わせの中から条件に合う解を探す。こうした問題は、将来的な量子コンピューターの有力な適用領域の一つとされている。しかし、顧客が困っているのは未来ではなく、今である。そこで、まず現在利用できる数理最適化技術などを使って課題を解く。ミニマムで動くものをつくり、現場へ持ち込み、実際に価値が出ることを確認した上で、次の検証へ進む。その過程で得られた業務知識やデータ、モデルは、将来量子コンピューターが成熟したときの資産になる。一方、研究開発部門など将来への投資余力がある顧客とは、現在利用できる範囲で量子コンピューターそのものを試し、将来の優位性につながる知見を共同で蓄積する。つまり、量子事業の入口は一つではない。「目の前の課題を解く」と「未来に備える」。この二つを顧客ごとに使い分けることが、まだ成熟していない技術を事業へ接続する方法になる。
金融、化学、製造——量子の用途は、まだ一部しか見えていない
現在、量子コンピューターの代表的な応用分野として語られるのが、金融や化学である。金融ではポートフォリオ最適化やリスク計算、化学・創薬では分子シミュレーションなどへの応用が期待されている。一方、NTTデータへ寄せられる相談は、金融、保険、化学だけに限定されない。製造業から適用価値検証について相談を受けるケースもあり、保険分野でもアクチュアリー業務など、これまで量子コンピューターを直接検証してこなかった領域から問い合わせが増えているという。番組パートナーのセック・内田氏も、建築、宇宙、ロボットなどへの可能性を指摘した。例えば建築や測量領域で扱われる点群データは、3Dスキャンによって膨大な点の集合として空間を表現するため、データ量が非常に大きくなる。こうした処理についても、将来的に量子技術を活用できないか検討余地がある。ここで重要なのは、「量子の用途一覧」を固定しないことである。現在知られているユースケースは、将来存在するユースケースの一部に過ぎない可能性がある。研究者だけでは気づけない問題を、製造、建築、物流、食品、宇宙といった異なる業界の人が持ち込むことで、新しい用途が見つかる。その象徴とも言える取り組みが、「量子×匂い」である。
「量子×匂い」——8000種類規模の再構成を、最適化問題として解く
視覚は画像や映像としてデジタル化され、聴覚は音声ファイルとして保存・送信できる。一方、「匂い」は私たちに極めて身近でありながら、視覚や聴覚と比べてデジタル化が進んでいない感覚の一つである。NTTデータは、大阪大学発のベンチャー企業である香味醗酵と、匂いの再構成に取り組んでいる。考え方は、求める匂いに対して複数の匂い成分をどのような比率で組み合わせれば近づけられるかを計算するというものだ。例えば、あるワインの香りを再現するとする。リンゴ、ブドウ、バナナなど、異なる匂いのデータを組み合わせながら、目標となる匂いへ近づけていく。ただし、実際の匂いは数種類の単純な組み合わせではない。番組では、実用規模として8000種類規模の匂いの再構成が紹介された。そこで使われるのが、数理最適化や量子コンピューターである。香味醗酵が扱う匂いのデータは、鼻の中にある嗅覚受容体が匂い刺激を受けた際の反応を波形として数値化したものだ。目標とする波形と、複数の匂い成分を組み合わせた際の波形を比較し、その差を最小化する組み合わせを計算する。つまり、「いい匂い」をコンピューターに判断させているのではない。人間の嗅覚反応を数値へ変換し、目的の反応へ近づく組み合わせ問題として扱っているのである。現在は8000種類規模の再構成にも成功しており、消臭剤の開発などへの応用も進められている。食品、化粧品、消臭、エンターテインメントなど、匂いが関係する産業の開発プロセスそのものを変える可能性を持つ。
匂いを「送る」——嗅覚がデータになれば、体験産業も変わる
さらに興味深いのは、匂いを再現するだけではない。匂いをデータ化できれば、「転送」という発想が生まれる。ある場所で取得した匂いの情報をデータとして送り、別の場所にあるデバイスで再構成する。そうなれば、理論上は匂いを通信できる。磯部氏は、香味醗酵と匂いのデータベース構築を進めることで、こうした「匂いの遠隔転送」につながる可能性についても語った。例えば映画館。森のシーンでは湿った土や木々の匂いがする。料理が登場すれば、その料理の香りが漂う。現在の映像体験は主に視覚と聴覚で構成されているが、そこへ嗅覚が加われば、コンテンツ体験そのものが変わる。食品開発でも、特定の商品や料理の香りをデータとして保存し、別の場所で再現するといった世界が考えられる。匂いのデータベースが整備されれば、これまで物理的な物質と切り離せなかった「香り」が、情報産業の対象になっていく可能性がある。量子コンピューターの価値は、単に既存計算を速くすることだけではない。これまで計算対象として扱うこと自体が難しかった現象を、最適化問題へ変換する。「量子×匂い」が示しているのは、その可能性である。
量子時代は「攻め」だけではない——いま始めるべきPQC
量子コンピューターは、新しい産業を生み出す技術であると同時に、既存システムに新しいリスクを生む可能性も持つ。代表例が暗号だ。現在広く利用されているRSA暗号は、非常に大きな数の素因数分解を現実的な時間で解くことが難しいという性質を安全性の前提としている。しかし、将来十分な性能を持つ量子コンピューターが実現し、ショアのアルゴリズムを実行できるようになれば、こうした暗号方式の安全性が脅かされる。磯部氏は、金融分野のメンバーとともに『量子コンピューター時代の金融セキュリティ』の執筆にも携わった。重要なのは、「量子コンピューターが完成したら対策する」では間に合わないことである。企業の基幹システムや金融インフラで暗号方式を変更するには、影響範囲の調査、システム改修、テスト、取引先との調整など長い時間が必要になる。そのため、量子コンピューター時代にも安全性を維持できるPQC(耐量子計算機暗号)への移行は、量子コンピューターの完成前から考える必要がある。つまり量子戦略には二つの時間軸がある。量子を「使う未来」に備えること。そして、量子によって「既存の前提が変わる未来」に備えること。企業にとって後者は、研究テーマではなくリスクマネジメントの問題でもある。
「学問の総合格闘技」——量子人材に必要なのは、量子だけではない
磯部氏が量子コンピューターの世界へ進んだきっかけは、最初から量子研究者を目指していたからではなかった。大学では物理情報工学を学び、制御工学、物性工学、量子工学という選択肢の中から研究室を検討していた。その過程で量子コンピューターを扱う研究室と出会い、将来を大きく変える可能性と、さまざまな専門領域が交わる面白さに惹かれていった。磯部氏は、量子コンピューターを「学問の総合格闘技」と表現する。量子コンピューターには量子物理だけでは足りない。ハードウェアをつくる人がいる。ソフトウェアをつくる人がいる。アルゴリズムを研究する人がいる。さらに金融で使うなら金融の知識が必要になり、化学で使うなら化学の知識がいる。製造現場へ入れるなら工場のオペレーションを理解する人が必要で、匂いを扱うなら嗅覚や香りについて知る人が必要になる。セックの内田氏も、量子コンピューターについて「足りているところは一個もない」と指摘した。完成したハードウェアだけを待っていても産業は生まれない。利用環境、ソフトウェア、アプリケーション、業務知識、導入支援、人材育成を同時に進める必要がある。量子コンピューター産業とは、一社、一分野だけで完成させられる市場ではないのである。
量子コンピューター社会実装に向けた3つの示唆
NTTデータの取り組みと、セック・内田氏との議論から見える量子コンピューター社会実装のポイントは、三つに整理できる。
1. 技術から始めず、「解くべき問題」から始める
量子コンピューターを導入すること自体を目的にすれば、PoCは成立しても事業にはつながりにくい。重要なのは、顧客の現場へ入り込み、熟練者の勘や複雑な業務ルールまで含めて課題を構造化することである。量子、数理最適化、従来型コンピューターのどれを使うかは、その後に決めればよい。
2. 完成を待たず、現在の技術で知見を蓄える
量子コンピューターが2030〜2035年頃に本格的な実用段階へ入るとしても、その日に突然ユースケースが完成するわけではない。現在使える数理最適化や小規模な量子環境を使い、顧客課題、データ、モデル、アルゴリズムの相性を今から検証する。実用化前の期間そのものを、競争力を蓄積する時間へ変える必要がある。
3. 量子の外側にいる人を巻き込む
「量子×匂い」が生まれたように、新しいユースケースは量子研究者だけから出てくるとは限らない。食品、建築、物流、金融、宇宙、ロボティクスなど、それぞれの業界に課題を知る人がいる。磯部氏は、量子を実用化へ近づけるためには、研究者だけではなく、さまざまなビジネスプレイヤーが参加し、知識を融合させるオープンイノベーションが必要だと語る。量子産業を大きくする鍵は、「量子人材を増やすこと」だけではない。量子を専門としない人が、自分の課題を量子の世界へ持ち込める接点を増やすことである。
パーソナリティーが感じたこと——量子の本当の競争は、「完成した日」より前に始まっている

今回の議論を通じて私が最も強く感じたのは、量子コンピューターの競争は、量子コンピューターが完成した日から始まるのではないということである。むしろ、その前にほとんどの準備が始まっている。どの業務に使えるのか。どんなデータが必要なのか。何を数式として表現すればよいのか。どの問題は量子に向き、どの問題は従来技術で解いた方がよいのか。そして、顧客が本当に困っていることは何なのか。こうした知識は、ハードウェア性能が突然向上しても、一晩では手に入らない。だからNTTデータは、まだ量子コンピューターが完成していない今から顧客の現場へ入り、PoCを行い、失敗し、モデルを変え、知見を蓄積している。
「量子×匂い」は、その象徴だと思う。量子コンピューターと聞いて、多くの人が想像するのは金融、創薬、化学などかもしれない。しかし、匂いという身近な感覚まで計算対象になり、やがて「匂いを送る」という新しい体験産業へつながる可能性がある。それは、まだ私たちが量子コンピューターの使い道をほとんど知らないことの裏返しでもある。完成を待って用途を探すのではない。異なる業界の人が、自分たちの課題を持ち寄り、研究者、エンジニア、事業会社が一緒になって「これは計算できないか」と考える。セックが量子を利用できる環境づくりを進め、NTTデータのような企業が業務課題と技術をつなぎ、さらに各産業の専門家がそこへ知識を持ち込む。その接点が増えれば増えるほど、まだ名前すら付いていない量子コンピューターのユースケースが生まれてくる。量子コンピューターの未来を決めるのは、量子コンピューターだけではない。それを「何に使うか」を考える人の広がりである。
